2014年5月2日金曜日

【音速の貴公子】サイレンススズカを語る。


 皆様ご無沙汰しております。涼風豊です。
憶えていらっしゃらない読者の方も居るかと思いますのでまずはこちらを御覧ください
http://kanisokuhou.blogspot.jp/2013/04/blog-post_25.html




今回久しぶりに記事を書かせていただこうかと、こうしてパソコンをぽちぽちしているわけですが
現在の2ch、アフィリエイトまとめブログ関連の記事はどうしても資料不足な為、
半端な記事を載せるわけにもいかないと思い自分の趣味である競馬。それも大好きな1頭であるサイレンススズカについての記事を書かせていただこうかと思います。


 以前、ディープインパクトについてここで記事を書かせていただきましたが
サイレンススズカはディープインパクトに劣るとも勝らない名馬ということを知っていただきたいと思う。


 サイレンススズカは94年5月1日に生まれた。
父はディープインパクトと同じサンデーサイレンス。
しかし現在ではサンデーサイレンスと言えば泣く子も黙る名種牡馬だが、この時代は違っていた。
というのもサンデーサイレンスの子供はサイレンススズカの母ワキアへ交配する段階ではデビューしておず、その能力は未知数であった。
 そしてサイレンススズカの生まれた牧場は決して大きくない、小さな牧場だった。
資金のある牧場ならいざ知らず、小さな牧場がまだ子供がデビューすらしていない父親を
選択するというのはあまりにもリスクが大きすぎる。
ではなぜサンデーサイレンスを選択したのか。
ここには理由がある。

 当初牧場は種付け権利を持っている「バイアモン」という種牡馬をサイレンススズカの母であるワキアへ交配を考えていた。
そして実際交配されたが受胎(妊娠)をしなかった。
2度交配を試みたが結果は不受胎。
これを見た牧場は同じく権利を持っていた「トニービン」という種牡馬を代打起用しようと試みた。
だが、ワキアが発情した日トニービンはすでに予約で埋まっていたのだった。
種牡馬を所有している社台スタリオンステーションがここで『サンデーサイレンスなら空いている』
と進言したのだった。
 そう。サイレンススズカの父、サンデーサイレンスは代打の代打。
こうしてサイレンススズカが誕生したのだ。



 サイレンススズカのレーススタイルはスタートから何人たりとも寄せ付けない逃げ。
いや、大逃げのスタイルだ。
しかし当初陣営は逃げではなく抑える競馬を望んでいた。
競馬というものは最後に脚を残しているものが勝利へ近づく。
陣営の選択は間違いではなかった。サイレンススズカのように類まれな才能を持つ馬以外…。
新馬戦で能力の違いを見せつけ圧勝するがクラスが上に上がるにつれ「このままでは勝てない」と陣営は考えたのだ。

そしてサイレンススズカはダービーなどクラッシクと呼ばれる3歳限定レースでは輝きを失い、
平凡な馬として認知されていった。


 しかしここで運命の出会いを果たす。
12月に行われる香港での国際レースへサイレンススズカが呼ばれ、陣営は承諾。
そして騎手を誰にするか。というとき
武豊が自ら騎乗させてほしい。と申し込んだのだ。
陣営にとっては願ってもない展開。
こうしてサイレンススズカは香港のレースへ出走するのだが結果は5着。
しかしこのレースで逃げてみせた武だけは満足そうにサイレンススズカを褒め称えた。
この時、武にはサイレンススズカのその後の活躍が見えていたのかもしれない。

 年が明け、武豊という最大の理解者を得てサイレンススズカは前年のチグハグな走りを忘れさせるような快進撃、大逃げスタイルを見せる。
まずはバレンタインステークス。
これは東京競馬場で行われるレースなのだが関西を拠点に活動する武がGIII、GII、GIといった大きなレースでもないにも関わらずこのサイレンススズカの為だけに東上するという極めて異例なことであった。
 ここを快勝し、その後GII、GIII、GIIと連勝街道を突き進んだ。
それもスタートから他馬との能力の違いで先頭に立ち、道中大逃げともいえるようなリードを保ち
そのままゴールするという衝撃的なレースぶりだった。
そしてサイレンススズカは夏のグランプリ宝塚記念へ駒を進める。
このレースは当初回避の予定だったが体調が良かったため出走を決めた。
その為他の馬で予約のあった武が乗れず、南井(ミナイ)騎手が手綱を取った。
 覚醒したサイレンススズカは騎手が変わっても関係なくここを完勝し、陣営の最大目標である
秋の天皇賞の有力馬へ名乗りを上げた。


 夏休みを挟んでの秋復帰戦には武を鞍上に戻し、GII毎日王冠へ出走を決めた。
そしてこれが僕自身、いまでも忘れる事ができない、語り継いでいきたいレースとなる。
この年圧倒的なレースぶりを見せていたサイレンススズカに年下の無敗の3歳馬2頭が挑戦状を叩きつけたのだ。
その2頭は
後にこの年の有馬記念を、そして翌年宝塚記念、有馬記念を連覇することになるグラスワンダー
そしてもう1頭は後に国際レース、ジャパンカップを勝ち日本所属馬として初めて凱旋門賞で2着になるエルコンドルパサーだった。
このレースGIより格の低いGIIレースだったにも関わらず観客数は10万人を超えた。

 レースは実にあっけなかった。
エルコンコンドルパサーに騎乗していた蛯名騎手が「影さえも踏めなかった」とコメントを残すくらいの圧勝。まさに敵なしで、秋の天皇賞へ王手をかけた。



 そして迎えた天皇賞(秋)
平成10年11月1日1枠1番1番人気
サイレンススズカは1並びで、そして誰もが負けるはずがない。いや、何馬身離して勝つのか。
それだけに注目していた。
ゲートが開きサイレンススズカはぐんぐん加速していく。
誰も追いつけない。
その差がみるみる広まっていき場内はどよめく。
これから一体どんなレースを見せるのかと。

 最後の直線へ入る手前の第4コーナー。
ここでサイレンススズカがガクッと速度を落とす。
そうサイレンススズカは故障したのだ。
悲鳴に包まれる場内。勝ち馬が何なのかさえ忘れ皆がサイレンススズカを観ていた。



 左前脚手根骨粉砕骨折。予後不良。
サイレンススズカは我々に前半の強烈なレースを印象に残したままこの世を去った。
そして後半の、最後の直線。果たして何十馬身離していたのだろうという妄想を残し逝ってしまった。

経済動物であるが故の宿命だが今でもサイレンススズカの子供がいればと思ってしまう。
今週も無事に馬と人が戻ってくることを願っている。

3 件のコメント:

  1. あの秋天懐かしいなあ…
    そして地味に優勝したオフサイドトラップ

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  2. 馬見  !  

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  3. たかが競馬と思ってたが、こうして見ると馬にもドラマがあるんだな
    俺屍2の体験版をやっているせいかぐっときた

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